堺意外史

Vol.33 戦国動乱期の「泉南仏国」〜豪商が建立した寺院郡〜

 中世後期から末期は親子兄弟すら相争った下克上の戦国動乱の時代。ところが、はるかヨーロッパからやって来たキリスト宣教師は、海外交易都市として栄えていた堺のまちを見聞してビックリ。「全国の金銀の大半が集まるところ」「ベニスのごとく執政官(豪商の代表)によって治められる。この町では敗者も勝者も皆平和に生活し、諸人相和し、大いなる愛情と礼儀をもって対応している」と報告している。

 しかし、変転極まりない内外情勢、海外交易の危機と競争も激しい。堺の商人たちは鉄砲や軍需品の生産と売り込みの「死の商人」たちでもあった。一時の安堵も得られない世の中。彼等はせめて安心立命と子どもの将来をおもんばかって、京都の本山復興だけでなく市内各所に私財をなげうって寺院を建立した。その寺院郡の有様を海会寺住持・李弘大叔は『蔗軒日禄』で「泉南仏国」と記している。

 当時の堺の人口は多くても6〜8万人と推定されるが、それに対する現在の旧市街地内の寺院数は、じつに168か寺(『堺市史』から、廃寺も含む)にものぼる。天台・真言・浄土・禅・真・日蓮・融通念仏・時宗の広範囲の宗派が揃い、当時、キリスト教の天主堂もあったから、まるで一大宗教都市でもあったといえる。その多くが、堺の豪商が京都などの高僧を開山にして建立している。豪商の子が後に高名な僧になっていたりもする。

 ちなみに、尾和宗臨は一休宗純に参禅、京都・大徳寺を復興。津田宗及は春屋宗圍を招いて大通菴(廃寺)を創建、子は有名な大徳寺56世・江月宗玩。日晄は父の豪商・油屋常言が創建した妙国寺(写真上)の開山になる。伝説の納屋助左衛門は屋敷を大安寺に寄進、カンボジアへ亡命したといわれる。樫本屋道顕は蓮如を迎え、信証院(現・西本願寺堺別院)を。谷正安は沢庵和尚を迎え、祥運寺(写真下)。日比屋了慶はビレラの洗礼を受け、キリスト教徒になり、大邸宅を天主堂にしたなどである。

 また、あまりにもすさまじい動乱の世の中を厭い、補陀落渡海と称せられる、堺沖の海上での集団自殺が横行していた。戦国時代の恐ろしい様相は、たとえ成功した豪商たちといえども、心の不安定は拭いようがなく、宗教の世界に救いを求めたといえる。

 しかし、それを、のりこえようとした、第3の生き方、文化を追求した堺衆もいた。

(次回)(旧市内寺町筋)

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