堺意外史

Vol.31 晶子と鉄幹が出会った浜寺・寿命館跡

 堺出身の情熱の家人・与謝野晶子と鉄幹がめぐりあったのは、100年余り前の1900年8月6日、浜寺公園内の寿命館で開かれた歌会であった。同9日には、晶子・鉄幹・山川登美子の3人だけで大阪の住吉大社に遊び、晶子と登美子はともに鉄幹への慕情を募らせた。さらに11月5日、3人は京都・永観堂の紅葉を見、栗田山に泊った。晶子ファンならずともよく知られている出会いの場である。このときの相聞歌は、美しく、哀しく、そして歓喜に満ち、近代・明治期の際立った青春の恋愛賛歌である。

 3人の恋の歌合わせの舞台となった堺・大阪・京都の3ヶ所は、いずれも当時の都市近郊の遊楽の名所。いち早く近代公園が開設されたところである。なかでも晶子と鉄幹の初めてのデート地とも言っていい寿命館という観光料理旅館はどこにあって、どんな旅館だったのか、最近、筆者の研究で明らかにした(『与謝野晶子倶楽部機関紙』第4号・1999年)


明治30年代の浜寺公園

 「わが恋をみちびく星とゆびさして君ささやけし浜寺の夕」はこのときの思いを詠んだ晶子の歌である。しかし偶然、寿命館跡付近に移設された歌碑の内容は全く別の後世のふるさとを偲んでの叙景歌である。今も、浜寺公園の松林は、特徴ある景観を残しているといえ、白砂の海浜が昭和30年代後半の臨海工業地帯造成で失われているのは、戦前までアーバン・リゾート都市だった堺が重化学工業都市へ転換したからである。江戸時代末の藩政改革による耕作地化、明治初期の殖産開発、15年戦争下での木造魚雷艇建造のための松の伐採、戦後、アメリカ軍用の住宅地化など、幾度も景観破壊の危機に会いながらも、なお、全国的に見ても景観保全をねらいにした公園の第1号は健在である。

(南海本線・浜寺公園駅西へすぐ)

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