堺意外史

Vol.36 高潮との闘い、開発の重労働の証し
          田守神社に残る力石

 春先になると、大和川左岸(堺市側)の河口近くの土手の傾斜面に黄色い菜の花が一面に咲き乱れる。その土手下に境内の樹林がいっせいに若葉を吹き出さしている田守神社がある。ちょうど阪堺大橋の南詰めあたりになる。1年先には阪神高速道路大和川線とスーパー堤防の敷地となり、移転してしまう。現在の位置に大和川が付け替えられ、河口付近に土砂が堆積しはじめた江戸時代中頃以降、堺港が埋没する一方、この三宝地区一帯の新田開発が進む。その鎮守として延享2(1745)年に建立されたといわれている。境内には一人ではともて持ち上げられないような小判型をした丸石15個が一列に並べられている。それぞれの石には、「さし石」「立花」「力石四十貫目」「小判石」などと深く文字が刻まれている。江戸時代後期から明治時代にかけてかつての村人たちが力自慢をして持ち上げた記念に奉納した力石である。

 この三宝地区は大和川付け替え後、上流から運び出されてきた土砂で州ができ、排水路の開削と土盛りの重労働の開発によって生まれたまさしく人工の土地である。しかし、せっかく開発した耕作地も高潮や台風が来れば、たちまち元の砂州に戻ってしまう。また一からやり直し。機械力のない時代であったから、開拓はまさに力仕事の連続であった。村人たちは高潮の来襲を避けたいと「波除明神」を祭って、一心に祈願をする一方、重労働を支える力を競い合った。そのイベントともいうべきものが、力石の重量挙げであった。

 宮司さんに伺うと、ご自分が就任した昭和38年ごろには、もうそんなことをすることはなく、境内のあちこちに放置されていた力石を今の場所にまとめた。付近の田畑は工場や住宅にどんどん変わり始めていたとおっしゃる。

 かつての新田開発の一面を語る歴史資料であり、田を守るとズバリの神社名もおもしろい。

(南海本線七道駅西へ1000m)

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