堺意外史

Vol.24 晶子は30cm、家康は2m、一休は3m現地表下を歩いていた          戦火・大火の焦土と復興土が交互に出土。


「やわ肌の熱き血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」と謳った与謝野晶子が通った堺女学校への道は現在の地表から30cm下の道。徳川家康が京で信長と会見した後、堺に滞在中の天正十年(一五八二)、明智光秀による本能寺の変を聞き、大急ぎで三河に逃れたときは、地下2m。サンフランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、初めて堺の地を踏んだときは地下2m20cm。一休(宗純)さんが街を闊歩したときは地下3mだった。

堺の街は、中世以来今日までも地理上の位置は変わっていない。しかし、それぞれの時代の人が踏みしめ、生活していた地表面の高さは随分違っていたことが最近わかってきた。

堺の旧市街地すなわち環濠都市遺跡内で、ビル建設の地下切削工事や下水管の埋設工事の際に、掘り下げられた地層の断面をみることができる。地表面から地下3.5mないし5mにかけて、赤茶けたあるいは黒く炭化した幾筋もの焦土層と黄色っぽい褐色の復興用客土層が交互に縞模様になって出土しているのである。ときには、津波の跡と思われる砂層が混じっていたりする。場所によってはすでに撹乱されたところもあるが、大方のところでは、これからの堺焦土層と呼ばれる他都市ではなかなか見られないみごとな地層が実見できるのである。

現地表から20cmほど下の焦土層は50年前の第二次世界大戦末期の大空襲で焼け野原になったときの層である。60cmの下あたりの砂層は一七〇七年の宝永大津波によって海底の砂が押し上げられたものと思われる。1m30cmぐらい下の厚い焦土は、豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣で、大坂方に焼き討ちに遭い、中世自治都市以来の町が灰燼と化したときにできた。さらにその下、地表から2mのところに見られる焦土層は、「黄金日日」といわれた時期、キリスト教宣教師も記録にとどめている天正の大火の跡。最下層の焦土は、応永六年(一三九九)、西日本に大きな勢力を誇っていた大内義弘と室町幕府が堺付近で戦い、町屋一万戸が焼けたときのものである。そしてそれぞれの焦土層の上層には復興・再建の新しい土が詰まっている。

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