堺意外史

Vol.22 14年続いた堺県
          痛手だった大阪府への編入

 堺市は現在、大阪府の内にある。だが、かつて大阪府とは別に堺県が併存していた時期があった。その堺県は現大阪府の約三分の二の面積をしめていた。現大阪府は旧国名の摂津の一部と河内・和泉・の三国略して摂河泉地域を占めているのだが、そのうち河内と和泉がかつての堺県であった。明治元年から14年間存続したにすぎないが、明治維新後の地方行政でもユニークな存在だった。

 

 教教科書では、廃藩置県は明治4年と教える。しかし、明治維新直後、旧幕府領はただちに府県として明治政府の直轄地とする。天領(幕府領)だった堺と周辺がまず堺県となり、順次、周辺部や旧藩領を吸収し、明治9年には、大和(現・奈良県)一円も含めた大きな県になった。

 初代知事は、官選で、小河一敏。今日の民主主義と自治の思想でなく、上からの「仁政」すなわち民に情け深い治政をすべきだとの強い儒教思想の持ち主で独自の県治方針を抱いていた。大雨で氾濫する大和川の治水工事を官費では間に合わないので自分や幹部の年俸を拠出して積極的にすすめた。また、県札を発行して、経済流通の活性化、全国の小学校開設に先立って郷学校を再興して県学として近代教育のスタートを切るなど、中央の統制を越えて、積極的な地方行政を押し進めようとした。このため明治政府と対立、明治3年10月に早々と免官になってしまう。

 しかし、二代目の税所篤県令の時代にも、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校)・堺版教科書の発行など教育行政や堺灯台の建造など港湾改修・紡績所・レンガ工場・堺博覧会など商工業振興のほか浜寺と大浜公園の開設など先進的に県政がすすんだ。

 だが、東京・京都・大阪府の三府の内、最も狭小で、財政が弱かった大阪府を補強するため、わずか県治14年にして廃県、大阪府へ編入された。県政が続いておれば、その後の鉄道敷設も大阪市に一極集中することなく、特徴ある地域の文化・経済発展があった可能性があったのではないだろうか。

 


(阪堺線神明町電停から東へ300メートル)


堺県は、南は今の和歌山県とのさかい、東奈良県を含む広い範囲でした。
(堺県庁跡<西本願寺堺別院内>)

 

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