堺意外史

Vol.21 堺幕府があった
          わずか5年あまりの短命

 武家が開いた幕府政権は、時代順にいうと鎌倉、室町、江戸の3幕府であったことは、だれでも知っている史実である。ところが、堺幕府が存在したというと、きっとびっくりする人が多いはず。最近の研究によって、群雄割拠する戦国動乱期の真っ直中の大永7年(1527)から享禄5年(1532)までのわずか5年余りの極めて短命だったが、堺に中央政権が置かれていたことが明確になってきた。

 

 将軍跡目とされた足利義継が「堺公方(さかいくぼう)」といわれ、管領・細川晴元、政権を支える軍事力は阿波国人衆の三好元長らによって担われた。この政権は、京都を掌握し、さらに摂津・丹波・和泉を中心に畿内をほぼ制圧する中央政権だった。

 

 足利義継は、将軍位にこそ現任されていなかったが、京都の公家や権門から「堺公方」「堺大樹」と呼ばれ、奉公人・管領代・山城守護代・山城郡代を駆使する管制上の頂点にあり、事実上の将軍跡目として、君臨していた。

 

 大永7年、室町幕府の管領・細川高国の打倒をめざした細川晴元らは、三好元長をはじめ四国・阿波衆の軍隊を主力に、京都での決戦に勝利。高国方は、12代将軍・足利義晴を奉じて近江に逃亡した。このとき、幕府の奉公人も下向しており、近江朽木谷へ亡命中の義晴・高国方の政権事務を行う機関の存在もなく、室町幕府は、一旦崩壊・中絶したとみられる。朝廷方が政権を握った堺公方に相談しなかった大永から享禄への改元は、公文書から無視され、大永年号が一時継続されたことも資料から明らかになっている。

 

 幕府の本拠は堺市中にあった顕本寺(現存)に構えた。ところが、この堺幕府の内部は、三好元長ら阿波国人衆だけでは一統支配することができす、山城後背地を握っていた柳本賢治や茨木長隆ら摂津の有力国人衆との連衡政権であった。このため、はじめに三好元長が柳本賢治と山城守護代をめぐって争い、柳本を追放。次いで、前政権の細川高国ら共通の残敵を滅ぼし、堺幕府が不動の地位を確保したかにみえたが、今度は、摂津国人衆らと阿波国人衆との権力闘争が激化。摂津国人衆は、台頭してきた一向宗門徒10万人の大軍を引き出し、享禄5年6月20日、幕府本拠のあった堺顕本寺に三好元長らを包囲して自刃させた。これによって、5年余にわたって存続した堺幕府が滅亡した。

 



(堺幕府の本拠があった顕本寺<右>と三好元長の墓<左>)

 

 このあと、京都支配をめざす摂津国人衆と宗教王国をめざす一向一揆、さらに京都町衆の三巴の戦いへ動乱が続いた。

(阪堺線宿院電停から東へ350メートル)

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