堺意外史

Vol.19 大評判だった「新地」芝居

江戸時代、歌舞伎 芝居見物は広く庶民の間で人気の高い娯楽であった。京・大坂・江戸の三都以外では堺は全国有数の興行地として知られていた。寛文・延宝年間(17世紀後半)ころ、市中においてすでに2軒の定芝居すなわち常設の小屋が公許されていたが、元禄期には義太夫節の大成者である竹本義太夫が堺で定期的に興行している。浄瑠璃を興隆させた豊竹若太夫は、堺近辺で起こった心中事件、すなわち木材屋糸屋の娘・お初が隣家の手代・久兵衛と恋仲になり、河内へ駆落ちの途上、百舌鳥の畑の古井戸にて情死した事件を題材に「心中泪の玉井」なる狂言は、大評判となった。


 

 当時の鎰町・戎嶋の両芝居とも1100人ぐらいも収容できたと推定される大劇場であったと同時に、茶屋や貸座敷茶屋などの芝居小屋周辺の施設も公許され、遊興施設が集まっていた。堺市中と周辺の人々はもちろん、堺港に入港した人々、日和待ちなどで滞在した人々が観客となった。さらに、市中には二か所に廓があり、これも全国的に有数の遊里であった。遊女が心中立てをする全国7か所の一つに数えられていたことや、井原西鶴の『好色一代男』で39歳の世之介が京の太鼓持たちと堺の廓で遊んだときの様子が生き生きと描かれているが、芝居と遊廓が相乗効果を出し合って、人気の遊興地になっていた。

 

 天保期(1830〜44)の大ききんと幕府改革によって、きびしい規制が実施されるが、堺では、ききん救済の社会事業的な役割も果たした港湾と新地の開発が積極的に行われ、市内にあった芝居小屋・茶屋・遊廓などが新地へ相次いで移転させられた。ちょうど質素倹約の天保改革のあおりで、大阪のスーパースターともいえた女形歌舞伎役者・二代目中村冨十郎はその生活や住まいがあまりにも奢侈過ぎると追放になり、堺にひっそくしていたが、新地世話役の尽力によってこの「新地芝居」で舞台復帰、『切狂言娘道成寺』などを演じて、またまた大人気を博すようになった。また旅役人などが流入するなど、改革以降、むしろ、新地を中心に歌舞伎芝居などが大盛況することになった。

 

 幕末の『文久改正堺大絵図』には、市中の二軒の定芝居が、戎嶋から宿院そして新地北へ、鎰町から大寺そして新地南へそれぞれ移転してきて、両・南北の芝居小屋が並立していることが見てとれ、新地繁栄の中心になっていることが分かる。  明治以降、これらの芝居小屋の伝統の変遷は詳らかでないが、有名な卯之日座もその一つであり、やがて芝居から活動写真、浪速節の全盛となり、その常設館となっていった。竜神座や戎座・電気館なども知られていたところである。


(二代目中村冨十郎住居跡碑は南海本線堺駅南口ロータリー前)

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