堺意外史

Vol18 大正時代までトップだった堺酒造業

堺市の現在の人口は80万人弱。準政令指定都市ともいえる中核市である。この堺市が明治初期以降、紡績、レンガ、緞通、機械、セルロイド、足袋などの新しい工業がぼっ興・成長し、近代産業都市として発達したことはよく知られている。戦後は、臨海工業地帯の造成による重化学工業の比重が大きくなった。


 

ところが、明治初年から大正初期まで、ずっと堺の製造業の第一位を誇っていたのは酒造業だった。意外である。今日、全国的な酒どころといえば、灘五郷といわれるが、かつて灘地方に次ぎ、酒造りが堺でも盛んだった。最盛期には、酒造業者95、生産量6万石(1石は約180リットル)を超えていた。しかし、現在、堺ブランドの酒造会社は一つたりとも残っていない。逆に、大阪府内には、池田の呉春、河内長野の天野酒など地酒づくりが続けられており、最近の地酒ブームで評判が高くなっているところである。

 

堺の有名な酒造家・鳥井駒吉はそれまでの樽詰めからビン詰め出荷の発案によって、消費者に重宝がられ、清酒の普及に大改革をなし、日本酒の根強い嗜好を維持させてきただけでない。戦前までは、九州、中国、北海道、東京など全国各地へ出荷していた。さらに、朝鮮、中国、台湾、アメリカなど海外へも積極的に輸出していた。有力酒造家が、市政、鉄道敷設、銀行開設など、近代都市化に果たした役割と影響も大きい。


(堺郵便局前の酒店の看板)

堺市内の古くからのそれも戦災をかろうじて逃れた酒屋(販売店)の店がまえの屋根に大きなケヤキとかヒノキの古い看板が掛かっていたりする。「金露」「都菊」「菊泉」など、もはや販売をしていない、あるいは若い人になじみの少ない銘柄があったりする。

堺の酒造業のはじまりは、中世以来ともいわれている(「蔭涼軒日録」一四九三年)。江戸時代の初めには、堺の商人が菱垣廻船を考案して、酒などを江戸へ運んだといわれているように、当時、京、大坂、奈良、堺が全国的な酒の産地として聞こえていた。そのころには、年間5万3千石の醸造高があった。天保年間(一八三〇〜四三)においても長崎への廻船の往きは酒荷、帰りは輸入生糸を運ぶ糸荷船となっている。近代に入って、酒造高の推移を見ると、堺の酒造石高は、明治13、15年の6万、6万3千石、同27、29年の6万3千石、同33年と39年の6万石をピークに、明治時代は上下するが、だいたい5〜6万石を生産している。そして、全国の造石高の1.3〜1.8%を占めていた(灘五郷は5〜10%前後)。

ところが、明治末から大正にかけて下降しはじめ、昭和に入ると2万石台に減少している。酒造家(会社を含む)が、明治13年に95軒もあったが、昭和8年には24軒に減っている。堺の酒造業が最もさかんだったのは明治時代で、先にも述べたように明治維新直後から紡績、レンガ製造、緞通、セルロイドなど近代産業が次々と勃興して、大阪市に次ぐ産業都市として発展するが、明治全期を通じてまた大正3年まで実に50年近く、堺の製造業の第一位を占め続けていたのである。

 

著名だった堺の銘柄

金露 都菊 沢亀 東洋一 菊泉 春駒 大曝小曝 鶴 金の鳩 国光 延命


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