堺意外史

Vol.15 朝鮮人・日本人女工そろってスト貫徹
          〜岸和田紡績堺工場(日本2番目の紡績所)跡〜

明治3年(1870)、全国二番目の近代紡績工場として開設された戎島紡績所は、その後民間に払い下げられ、昭和初期には岸和田紡績堺工場として、堺・泉州地域の紡績業の拠点工場のひとつであった。昭和4年(1929)、経済不況に対する浜口内閣の緊縮政策は、急激に不況を深刻化させた。翌5年の世界恐慌が重なり、産業界は人員整理・賃下げを次々と実施、失業者が溢れ、社会不安が高まり、各地で労働争議が頻発していた。

この工場では、同年3回にわたり12%の賃下げと操業短縮で、実質的に40%もの賃下げを強いられた。また、男女間の賃金格差、さらに従業員の30〜40%が右翼団体が集めてきた朝鮮人女性であったが、日本人との間でもかなりの賃金格差があり、きつい搾取と差別が行われていた。これらの情勢の中で発生したのが、民族的な差別を乗り越えた争議であった。「4割減給即時撤回、等級制の改善、昼食・夕食時にはせめて30分の休憩を、帰国退職手当の制定、解雇絶対反対」などを要求。従業員大会はただちに会社の弾圧により解散させられるが、 寄宿させられていた女工らが会社から脱出、ストライキに入った。争議団の幹部や男子工らのほとんどが、検束され、女工のみとなったが頑張った。それでも検挙につく検挙、暴力団による強制連れ戻しなどがあり、争議団員が減少。ついに「解雇10人、解雇手当支給、争議団に金一封」という要求とはかけはなれた解決で終わったが、朝鮮人と日本人女工が共に立ち上がった争議として有名。

ところがその工場跡には、高さ約4.8mの「明治天皇御駐蹕之跡」と刻んだ石の大きな記念碑が住宅団地を背にそびえているだけである。明治天皇が明治10年に(1877)に、当時として先進的であった紡績工場を視察したことを称えたものであり、この有名な争議事件を知る由もない。


(戎島紡績所を描いた錦絵)
明治はじめの戎島紡績所の錦絵
(南海本線・堺駅から東へ約300m/府営戎島団地東南角)

 

 

 

 

 





 

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