堺意外史

Vol.14 租庸調に苦しむ民衆が築いた土塔
          〜朱塗りの仏塔には近寄れなかった〜

ロマンが満ちているといわれる『万葉集』に「香塗れる塔にな依(よ)りそ、川隅(かわくま)の屎鮒(くそふな)喫(は)める痛(いた)き女奴(めやっこ)」という意外な歌はあまり知られていない。飛鳥・奈良時代に中国・朝鮮半島を通じて日本に入ってきた仏教は聖徳太子以降、天皇や貴族層に広がった。それはその後、古代天皇制国家の体制維持のためだった。
東大寺と各国に国分寺・国分尼寺が建立されたことでも明らか。りっぱな香しい五〜七重塔などが完成しても建設に携わった下層民衆は決して近寄れなかった。

これに対して、百済系の出身といわれる僧・行基は、民衆布教にあたって橋・ため池・布施屋の建設を指導し、律令体制下での租・庸・調の重圧に苦しむ地方豪族や一般民衆の救済に力を注いだことはよく知られている。
大野寺に近い土塔は13段のピラミッドのような形をした土を積み上げた塔であり、珍しい。
地方豪族や僧尼・民衆が信仰で結縁したまさにシンボルともいえる。
昭和27年に北側約3分の2が戦後復興の土取りのため、削り取られたときの調査で各段には瓦が葺いていたことが確認され、昨年7月の周辺部の公園化のため調査でも多数の文字瓦が出土した。丹比連(たじひのむらじ)、秦、矢田部連(やたべのむらじ)といった摂河泉地域の氏族名や福賢、蓮光などの僧侶・尼僧それに東人、平女など女性を含む姓を持たなかった一般民衆の名前が線刻されている。しかも同一の人物名が見られないことから、この地域の広範な層の人々一人一人の意志の下に合力して築造したことが分かる。

行基の生家が家原寺になったといわれるが、同寺所蔵の鎌倉時代作の『行基菩薩行状絵伝』には、現・土塔町に所在する大野寺の本堂・門とともに土塔など往時の様子が描かれていて興味深い。


土塔
(泉北高速鉄道・深井駅から東へ約1200m)

 

 

 

 

 


 

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