堺意外史

Vol.12 戦時国策のため閉鎖された
          民間航空輸送のさきがけ大浜水上飛行場跡

大正11年から始まって昭和14年に閉鎖されるまで18年間に、堺および大阪と徳島・高松・今治・大分との間や白浜への延べ飛行距離は249万キロメートル、旅客2万5千人のほか、郵便・貨物を運んだ、日本の民間航空輸送の発祥地である。
 第一次世界大戦で飛行機が兵器として有効性が認められ急速に発達するが、国内でも、明治43年、軍人の日野・徳川両大尉による代々木練兵場での初飛行に示されるように軍用飛行としてスタートする。これに対してあくまで民間の人、もの、情報を運ぶ「平和利用」としてパイオニア的に開設されたのが、大浜海岸を利用した水上機と飛行艇による航空事業であった。「征空野武士」ともいわれた徳島出身の井上長一氏によって「日本航空輸送研究所」という名称の会社が設立され、数度の風水害や事故をのりこえて、閉鎖される3年前に導入した双発のスーパーマリン・サザンプトン飛行艇(19人乗り)はキリン号と名付けられ、大きな座席、明るい窓、エアガールによるサービス、ビール提供の「空飛ぶホテル」として関西から四国・九州方面の利用客から人気を博した。さらに当時としてはジャンボ機にたとえられてもよい50人乗りの大飛行艇を導入し、大発展を期していた矢先の閉鎖を余儀なくされる。それは、昭和6年の「満州事変」、同12年の日中戦争、そして近づく太平洋戦争へ、すべてが戦争遂行のため、国策の大日本航空株式会社へ吸収されたからである。この時、井上長一氏は無念の気持ちを国にかなり遠慮しながらも「18年の光栄ある日本航空輸送研究所の無に帰することは愛児を葬る日のごとき惜別の情がひしひしと胸底を往復し、一抹の悲哀は事業の終末の挽歌と思える。」と述べている。


(出島漁港・手前に民間航空輸送発祥之地の碑がある)

最近まで残っていた格納庫は新しい市の消防本部庁舎が建ち、痕跡はなくなった。ただ出島漁港の西側の船待神社お旅所の片隅に、海に向かって高さ1.8mの自然石の記念碑と航空事業の犠牲になった、飛行士、機関士、整備士らの銘板が残されている。



大浜飛行場があったところ、今は漁港とヨットハーバーになっている。
(南海本線 湊駅から西へ800m)

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