堺意外史

Vol.10 防空・建物疎開跡にできたフェニックス通り

日本の道100選にも選ばれ、今の堺の旧市街地を東西に貫くメインストリートになっている宿院通りはフェニックス通りとも呼ばれている。もともとのメインの東西道路は、摂津と和泉の国境であった大小路通りであったが、お株を奪った感がある。
この幹線道路の敷設は、アジア・太平洋戦争の末期の防空対策と戦災復興事業によって生まれた。1943年(昭和18年)2月、日本軍のガダルカナル撤退を契機として敗勢はもはや動かし難くなり、本土空襲は必死の情勢となった。アメリカ軍によるベルリン空襲の実情から、もはや防空訓練や防火用貯水池・防空壕などの構築ではとうてい役に立たないことがわかり、防空対策は、防火から主要都市の建物・人口の疎開に切り替えられた。同19年6月の大阪府会で堺も疎開都市に指定され、同10月の第1次をはじめ5次にわたって計3620戸の撤去と11846人の立ち退きを余儀なくされた。要するに、旧市街地を幾つものブロックに分断、延焼被害を最小にくいとめようとした。しかし、そのかいもなく、同20年7月10日未明、B29の超重爆撃機116機による濃密な焼夷弾投下によって一夜にして市街地の大半が焦土となった。

その防空地跡が戦災復興事業によって、市内で最大の50メートル幅の東西幹線道路となった。市立中央図書館には、疎開前の町並みを詳細に描いた絵図が残されている。

 

 

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