堺意外史

Vol.06 天保の大飢饉に港の開発
          ― 御蔭山(おかげやま)跡 ―

天保8年(1837年)2月19日、連年の凶作と商人・酒造人による買い占めによって米価は大幅に高騰した。さらに役人と富商の癒着に対し、元大阪町与力の大塩平八郎が「救民」の旗印を揚げて乱を起こした事件は、大きな衝撃を与えた。幕府は民心離反に恐れをなし、糊塗策に腐心しなければならなくなったことは有名である。にもかかわらず、堺から大塩の乱に呼応したという動きはあまり記録されていない。
天保7年にはさらに米価が高騰、冬を迎え翌正月までに大坂で餓死・凍死者4〜5千人が出た。「堺より大坂辺路上、餓孚絡繹(がふらくえき=飢えた人が連なっている様)は肝を潰し候。元旦、住吉に参候道中、5、6人の餓死も見候」との手紙文も残っている状態であった。
この年、中之町から南半町浜に通じる堀川を開削。これによって南の土居川と繁がり、今日の内川が南北にわたって全通し、堺の環濠は四周した。このとき掘り上げられた土砂が積み上げられて出来たのが御蔭山(御影山)であった。「諸入御影にて、米高相凌ぎ候とよろこび、御影山となづけ候」と記録されている。大飢饉にあえぐ堺のまちの人々が、この開発事業の賃稼ぎ労働で、生活をしのぐことができた気持ちが、みごとに込められている。
この時期の堺では十数年にわたって港湾と周辺の総合開発、今日でいうウォーターフロント開発が官民一体となって積極的に行われていた。当時の堺奉行は、有力商人に大和川から吐き出されてくる土砂で埋まる港付近に堀川の開削や浚渫を勧め、天保2年(1831年)以降、川口波止・内川・古川の浚渫、同5年には旭川の開削を開始し、旭橋もかけた。さらに竪川に勇橋も架設。新地と呼ばれたこの地に前後して芝居・茶屋・遊廓が公許され、寺・鎮守社も勧進され、町家が建設された。
現在、御蔭山は削平されて残っていないが、当時は高さ9間余り、山総回り174間もあった。

(場所:南海本線堺駅南口から南へ約200メートル)

<< 前のコラムを読む [ 一覧へ戻る ] 次のコラムを読む >>

[ ページトップへ戻る ]

※ 各コンテンツのURLは整理のために変更になることがあります。
  ブックマークはトップページにお願い致します。
※ サイト内コンテンツの無断転載はご遠慮下さい。

ホウユウ株式会社
〒590-0982 大阪府堺市堺区海山町1-8-4
TEL 072-227-8231 / FAX 072-224-1466