堺意外史

Vol.04 千利休切腹と屋敷跡
          ― 千利休屋敷跡 ―

天正14年(1586年)、北九州の大大名であった大友宗麟が秀長(豊臣秀吉の弟)を訪れたとき、「内々の義は、宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」といわれた利休。秀吉政権下で単なる茶頭としてだけではなく、内政にも大きな影響力を持っていた彼が、天正19年(1591年)に切腹を強いられた理由には諸説がある。最近の有力な説では、朝鮮侵略に反対だったことが大きいとされている。


(現在利休屋敷跡といわれている場所は確証はない)

天下人になるまで、武将や戦功のあった大名には恩賞の土地を与え続けることで成り立ってきた豊臣政権は、いわば戦国バブル政権といえた。もはや国内に攻めるべき土地が無くなった秀吉が、海外にそれを求めようとしたのが「朝鮮出兵」である。
この戦争の破綻が関ヶ原・大坂の陣となって豊臣にはね返り、徳川に政権を取って代わられることとなった。その後の経過を見ればわかるように、これが戦時国家から平時すなわち平和国家へと時代が移るターニング・ポイントとなったのである。
大坂夏の陣で焦土と化した堺の町は、徳川幕府によって全く新しい都市計画の基に再建された。その時、市街地が拡大されただけではなく、それまでの街区の構造が大きく変わってしまった。したがって、中世の利休屋敷がどこにあったのかは、本当のところはよく判っていないのである。
記録にある今市町が町並み改変後の近世期の今市町と同じ位置であったかどうかは疑わしい。現・利休屋敷跡は江戸時代末に利休を忍んで建てられた「懐旧庵」の跡なのだ。1989年、市立埋蔵文化財センターが行った隣接する場所の発掘調査では、利休屋敷に結びつく遺構・遺物はついに出なかった。

(阪堺線宿院電停から西へ50m)

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