堺意外史

Vol03 武士をコケにした堺商人
          ―鉄砲鍛冶屋敷跡―

戦国動乱期だった中世末期、日本随一の港町・堺では都市自治が行われ、唯一のピースゾーンであったことを、当時ヨーロッパからやってきたキリスト教宣教師が伝えていた。その一方で、鉄砲や軍需品を戦国大名に売りまくっていた「死の商人」たちによって運営されていた都市であったとも言える。政商達が信長・秀吉・家康など、戦国時代の中心となった武将達と結びついて大活躍していた時代である。かの鉄砲を敵対し合っていた大坂方にも徳川方にも御用達していた。
そのツケは、1615年(元和元年)に支払われることになる。大坂夏の陣に際して、遂に大坂方・大野道犬によって全市が焼き払われることになったのである。

動乱の終結により鉄砲生産は急激に減少し、平和産業とも言える包丁鍛冶に転換していくが、なお大名の形式的な武装を整えることや猟銃としての需要が続く。

1796年(寛政8年)に発行された当時の地誌・観光案内書ともいうべき『和泉名所図絵』の「堺津鳥銃鍛冶」の店頭の様子を描いた挿絵がおもしろい。

その書き入れ文をみると「ある武士、堺にて鉄砲を買わんとて、多く見て、これは何ほどと問えば、亭主答えて、これは三匁玉、これは五匁玉打ち候と答う。いやいやさにあらず、ね(値)は何ほどか問えば、あるじ、ね(音)はポンとぞ答えける」

江戸時代の厳しい身分制度社会では、町人が武士に屈辱を与えれば無礼打ちとなってもおかしくなかったはず。そのような時代に武士を小気味よくあしらった、ユーモア溢れる堂々の出版だ。町人も武士並のプライドを持っていたのである。ほかにも、大名が和泉守なにがしと称したのに対抗して、商人は、和泉屋なにがしと称したことは、よく知られた一例である。

(鉄砲鍛冶屋敷跡は、阪堺線綾之町電停北へ300メートル)

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