堺意外史

Vol.01 大和川付け替えに反対しなかったのはなぜ?
           ─ 保守化した堺商人─


(写真は現在の大和川の風景。前方を
通っているのは阪神高速堺線と南海線)

中世、日本随一の港都として栄えた堺は江戸時代に入り衰退していった。その理由として、@オランダと中国とだけの管理貿易──いわゆる鎖国になった、A宝永元年(1704)に東大阪地域の洪水対策と新田開発のため、大和川が今日のように付け替えられたため、流出する土砂で堺港が埋まってしまった、というのがよく知られている。

@の大和川付け替えについては、現在の大阪市と堺市の境を流れる新大和川の開削で川床となった地域の農民だけでなく、大坂・京・伏見の商人が付け替え反対運動をしていたと思われる資料が残されている。「新田より流れ込む砂波にて、大坂河口へ打ち寄せ、余程河口高く砂にまかりなり、諸国の船出入りなり申しまじくと存じ奉り候、しかるは、大坂・京・伏見町人の儀は申し上げるに及ばず、五畿内の惣百姓までも迷惑仕様にまかりなるべしと恐れながら存じ奉り候」との嘆願書である。これは全く大阪港湾の埋没を先見的に懸念したもの。事実、付け替えによって北側の大坂よりも堺港が埋まってゆくことになる。だが、この訴状に堺の名前が出てこないのは何故だろうか。当時、堺の商人はこのことに無関心だったのだろうか。
井原西鶴は、元禄期のころの堺商人の様子を『日本永代蔵』で語っている。「比津は長者のかくれ里、根の知れぬ大金持ちその数知らず・・・内儀十四の嫁入りして銀五十貫目その時の箱入封のまま重ね置、その娘、縁付く時これを持たせておくりける人もあり・・・」要するに大金持ちはたくさんいるが、積極的な商売をせず、内輪に構えている。伝説的な冒険商人・ルソン助左衛門のような商人ではなく、たまった大金を細かに使う金融商人が多くなって保守化していることを語っていると考えられる。
かつてのように船を仕立てての積極的な商売よりも、地道で世の大勢に逆らうこともない気風のため、大坂・京・伏見商人が心配した港湾の埋没を気に掛けなかったのではないかとも、理解できよう。それとも、堺商人が反対した資料が残らなかっただけのことだろうか。

(元禄期の港跡は、ザビエル公園西側の内川付近・阪堺線花田口電停西へ200m)


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